高校野球から考える高校サッカーの髪型と応援について

高校野球から考える高校サッカーの髪型と応援について

こんにちは。

サッカーは「深く狭く」掘り下げたいアラサーライターの蹴道浪漫(シュウドウロマン)です。

今回は、サッカーの髪型と応援について、気ままに考察します。

高校野球の髪型について

異常な盛り上がりを見せた夏の甲子園が、慶応高校の優勝で幕を閉じた。私は決勝戦のハイライト映像を見ただけだが、今回の夏の甲子園では「坊主頭以外の高校が上位に進出」と「慶応高校の大迫力の応援」が、特に話題になっているようだ。

まず、髪型に関しては自由にすべきという意見がほとんどのようだが、当たり前だろう。わざわざ、競技に支障がでる髪型にする選手はいないはずだ。髪を染めようが、強めのパーマをかけようが、校則を破っていないのであれば問題ない。

坊主にするメリット

高校野球を描いた、漫画『砂の栄冠』では坊主頭にする理由を「髪があると帽子が広がる」ことで、「身体が小さい高校生の場合」は、「ユニフォーム姿が余計に細く見える」ため、「坊主にして、帽子をコンパクトにする」といった趣旨の考えが取り上げられていた。

要するに「見栄えを良くする」ために坊主にするという考えだが、今回の大会を見ていて、髪を伸ばしている学校の選手が華奢に見えることはなかった。

坊主の方が髪を洗いやすくて、乾かしやすいというメリットがあるため、禁止する必要はまったくない。そもそも、髪型について話し合いをすること自体ナンセンスだろう。太平洋戦争前や戦時中には髪の衛生面の問題から、野球界でも坊主頭が励行されていたようだが、当然今とはまったく時代背景が違うため参考にはできない。

高校サッカーの髪型について

サッカーでも、一時期は部員全員が坊主頭の学校もあったが、最近はほとんど見なくなった。私がサッカーをしていた20年ほど前は、何かルールを破った部員が、反省の意を表するために坊主にすることもあったが、今思うとただのパフォーマンスだった。

髪型を変えると性格が変わるという考え方がある。確かに一理あるだろうが、髪型を変えても、その人の本質的な考えや行動までは変わらない。ましてや、坊主にしたからといって、野球やサッカーがうまくなるわけではない。

高校野球の応援について

次に、応援について。そもそも、真夏の炎天下で吹奏楽の応援をすること自体、本来の音楽の楽しみ方とはかけ離れていると思うが、ここでは気候や条件に関係なく高校生のスポーツの試合で応援が必要なのか考察したい。

まず、野球において応援の力は絶大だと感じる。特に、吹奏楽の応援は高校生特有のものであり、プロの試合とは違った楽しみ方ができる。応援を楽しみに高校野球を見に行く人も多いだろう。甲子園で演奏がしたくて、野球の強豪校の吹奏楽部に入る人も多いようだ。

高校サッカーの応援について

しかし、高校サッカーにおいては、応援の力はさほど大きくないと考えている。なぜなら、応援するタイミングが決まっておらず、両チームの音がかぶってしまうことがあるからだ。野球の場合は、攻撃側のチームがバッターボックスにいる選手の応援歌を歌っている。

しかし、サッカーの場合は、攻守の移り変わりが多く、応援する時間帯を明確にわけることができない。 たとえば、高校サッカーを見に行っても、両チームの吹奏楽部が一斉に演奏を初めて応援団が応援歌を歌いだすといったケースがある。

相手チームに負けじと、必死に演奏する吹奏楽部と、大きな声をだすサッカー部員と思われる応援団。必死に応援している人には申し訳ないが、ただの観客である私のような人間からすると、正直なところちょっとうるさいと思ってしまうこともあるほどだ。

今後の高校サッカーの応援スタイルについて

そのため、サッカーの試合においては、時間を決めて応援するのが良いのではないか。たとえば、高校サッカーの試合でも試合開始から10~15分毎に各チームが応援をする。フリーキックやコーナーキックの際には、時間が割り振られているチームではなく、攻撃側のチームが応援できるといった方式も選択肢の1つになり得るだろう。

当初はルールを守らずに応援するチームもあるだろうが、徐々に時間を割り振って応援するスタイルが定着すれば、より観戦しやすくなるはずだ。応援する方も、時間が決まっているとメリハリをつけて応援できるだろう。

高校サッカーほどの多数の楽器を使用しての応援は、日本を含めて、ほとんどの国のプロのサッカーの試合で行われていない。せいぜい太鼓やラッパ程度であり、トランペットやホルンを使用した応援は見たことがない。日本の学生スポーツにおける、吹奏楽での応援は独特のものであるからこそ、今後も工夫を加えながら続いていってほしい。