体罰という言い方、止めませんか?

体罰という言い方、止めませんか?

2022年5月10日

こんにちは。

サッカーは「深く狭く」掘り下げたいアラサーライターの蹴道浪漫(シュウドウロマン)です。

今回は、サッカー界の体罰の問題について、気ままに考察します。

サッカー界にはびこる暴力

熊本県の秀岳館高校サッカー部で、男子サッカー部のコーチが選手に暴行を加えていたことが発覚して大きな問題となっている。一連の報道を見ていて「体罰」という表現に違和感を覚えた。なぜなら、今回の一件は、間違いなく暴行であり犯罪行為だからだ。「体罰」や「いじめ」といった表現で、問題を曖昧にするべきではない。

今回の一件に限らず、今でも日本のスポーツ界では、暴力行為が発覚して問題になることがある。指導者が教え子に暴力を振るったり、練習中に選手同士での暴行が起きたりすることもある。秀岳館高校サッカー部に至っては「コーチの生徒への暴力は日常茶飯事」と、報道されている。なぜ、日本のスポーツ界から暴力が消えないのだろうか。以下の3つに原因があるとして考察を進めたい。

1.主従関係

2.閉鎖的空間

3.指導者の勘違い

指導者と選手という主従関係

日本のスポーツ界、特に高校生を含むアマチュアの世界においては、指導者と選手が対等な関係ではない。サッカーにおいても、ほとんどのチームは出場メンバーを選手ではなく、監督やコーチが決めている。監督やコーチに嫌われないように、顔色を伺いながらプレーしている選手が多いのも実情だ。監督やコーチの身の回りの世話を命じられている選手もいる。

これが、ヨーロッパや南米のサッカー界では、少し事情が違ってくるようだ。海外のサッカー中継を見ていると、日本の「監督」にあたる人物が「Coach」と表記されていることがわかる。日本の場合は監督が「Boss」の立場で、主に「teaching」を行っているのに対して、海外では「coaching」を行っている。海外のサッカー界における「監督」というのは、「教える」というよりも「サポートする」「共に考える」という役割のようだ。

そのため、選手と監督は対等な立場にあり、試合や練習の映像を見ているだけでも活発にコミュニケーションを図っていることがわかる。指示通りに動くのが得意な日本人選手に対して、海外選手は自分の考えのままに行動するのが得意なようだ。どちらが優れているという話ではないものの、日本のサッカー界の方が、暴力が起こりやすい構図になっていると言えるだろう。

もちろん、海外のサッカー界で暴力がない訳ではなく、国や地域によっては差別が横行している。日本に限った話ではないが、暴力も差別も根底にあるのは「自分が上」という傲慢な考えにある。

閉鎖的空間

サッカーに限らず部活というのは閉鎖的になりやすい。年度初めに新入生が入ってくること以外には、ほとんど人の入れ替わりがなく、あまり代わり映えのない日常が続く。特に、スポーツに力を入れている高校というのは、専用の寮やスポーツクラスが設けられているケースも多く、より閉鎖的な環境になりやすい。たとえば、全寮制で外出も禁止されているような男子校だと、日常生活で目にする女性が食堂のおばちゃんだけということもあるようだ。

限られた人との関わりのみの生活の中だと、大きなストレスが溜まってくるのだろう。もちろん、暴力を振るっていい理由にはならないが、一部の学校のサッカー部員は、異常な環境に身を置いているのも事実だ。先輩に気をつかう一方で、後輩には横柄な態度を取る。指導者や年長者が絶対の空間で、「メンタルが鍛えられる」と言い聞かせながら、理不尽な暴力に耐えている選手もいるだろう。当然、精神力が鍛えられる訳もなく、精神構造が歪んだまま上級生になり、負のスパイラルが続くのだ。閉鎖的な空間が、先述した主従関係に繋がるとも言える。

指導者の勘違い

学校からは自由を与えられ、保護者からは接待を受け、選手は自分の言うことを聞いてくれる。余程の人格者でない限り、指導者が自身を過大評価してしまうのも、無理はないのかもしれない。私も、小学生の頃から10年近くサッカーをしてきたが、人にものを教える資格のないような指導者を数多く見てきた、暴言をはかれたり、暴力を振るわれたりした経験もある。試合中に相手チームの監督やコーチから、自分や味方のチームメイトがなじられたこともある。

それでは、なぜこのようなあくどい指導者が生まれるのか。いくつか理由があるだろうが、「自分も理不尽な経験を乗り越えてきた」という経験があるからではないだろうか。先輩や指導者から暴力を振るわれてきた人間が、暴力を振るう側に回る。自らの過去を正当化するかのように、自分の指導方針を変えない。自分を中心に物事を考えているため、選手の将来を思いやることなど、到底できないのだ。いずれにしても、指導者の力量によってそのチームのルールや雰囲気が決まってくることに、間違いはない。良くも悪くも、監督やコーチの影響力はとても大きいのだ。

それでは、ここからは「暴力が起こりにくい仕組み」を作るには、どうしたら良いのかという点について、以下の2つの視点から考察したい。

1.特待生制度の廃止

2.クラブチーム化の推進

特待生制度の廃止

高校生のサッカーで、各都道府県の上位に進むチームは、ほとんどが特待生をとっている。できる限り能力の高い中学生を集めて、一年中サッカー漬けの生活を送るのだ。全国大会に出場したり、東京の有名私立大学に特待生で入学したりすれば、とても効果的な宣伝になる。勉強はそっちのけで、全国遠征を繰り返して、ひたすら部活に励んでいるのが実情だ。

しかし、ここで問題になるのは、選手が「部活を辞めたら学校を辞めなくてはならない」と考えていることだ。退学になった先輩や同級生が身近にいる選手も多いだろう。特に、全寮制の場合は「部活が生活の全て」になる選手がほとんどだ。「プロになる」「良い大学の推薦を取る」ために、暴力を振るわれても表ざたにしていないのだ。

実際には、部活を辞めても学校まで辞める必要はないものの、先輩や顧問と顔を合わせるのが嫌で自ら退学を選ぶ選手も多い。つまり、学校や部活という閉鎖的な空間だからこそ、暴力が横行していると考えられるのだ。これは、何も高校生の部活に限った話ではない。直接手を上げる訳ではなかったとしても、選手に暴力的な言動を繰り返す指導者は、小学生年代から存在する。

プロよりもアマチュアの世界で暴力が横行しているのは、指導者が保護されているからである。プロチームの練習で監督が選手に暴力を振るったら、クビになる可能性が高い。代わりの監督はいくらでもいるからであり、少なくとも謹慎期間は設けられるだろう。あるいは、選手が自主的に他チームに移籍することもある。プロサッカーの世界では、選手が監督を批判することがあるものの、アマチュアではありえない。

特に、高校サッカーの強豪チームは、指導者が保護されている。なぜなら、そのような学校はサッカーを通して宣伝を行い、新入生徒を集めているからだ。名将と呼ばれる人も多く、何十年と同じ学校で監督を務めている人も珍しくない。しかし、こういったケースは指導者が絶対的な権力を保持してしまい、選手が弱い立場に追い込まれる可能性が高くなる。実際に、選手の保護者が指導者に接待をしているチームも多く存在している。

問題は非常に根深いものがあり、一朝一夕で解決できるものではない。現実問題として、今の特待生制度を廃止したところで、何らかの形で「選手を勧誘する」という制度は残るだろう。しかし、大事なのは選手が「指導者が嫌なら辞める」という選択肢を持てる環境作りだ。実際に、今の日本サッカー界の場合は、部活を辞めたとしてもクラブチームで競技を続けることはできる。

クラブチーム化の推進

部活という日本特有の文化が、暴力の温床になっている部分がある。家と学校以外のコミュニティに属していれば、より客観的な考えを抱けるようになるだろう。自分に合わなければチームを移籍できるという仕組みが、日本のアマチュアサッカー界でも当たり前になれば、あくどい監督やコーチがいるようなチームは勝手に淘汰されていく。パワハラが横行している会社がブラック企業として認定されて、新入社員が入ってこなくなるのと同じ構図だ。

ヨーロッパや南米のサッカー界では、部活文化がないためアマチュアでも選手の移籍は当たり前のように行われているようだ。そのため、暴力が起こりにくい構造になっているだけではなく、補欠が存在しない。ブラジル生まれのセルジオ越後氏の言葉を借りると、「高校のサッカー部に入って3年間試合に出られないのは、授業料払っているのに授業を受けられないのと一緒」ということだ。日本でも、小学生や中学生のチーム移籍が活発になれば、サッカー界全体の底上げに繋がると考えられる。

特待生制度の廃止やクラブチーム化の推進は「選手や指導者の流動性を高める」ために、効果的な方法だ。選手を保護する一方で、指導者の自由度も高められるだろう。暴力を振るっていい理由にはならないが、自分勝手で生意気な中学生や高校生がいるのも確かだ。ルール違反をするような選手に対しては暴言を振るうのではなく、「他のチームに移籍しなさい」と言える環境にすれば良いのだ。飲食店が迷惑な客を出入り禁止にするようなものだ。

暴力を正当化するものとして、「社会に出ればもっと理不尽なことがある」「メンタルが鍛えられる」といった声を良く聞く。しかし、これは明らかに間違いだ。私に限って言うと、社会に出てから理不尽なことに直面する機会は多かったが、暴力を振るわれた経験はない。社会人になれば、いくらでも職場や生活環境を変えられる。部活や学校という閉鎖的な空間にいなければならないという方が、よっぽど不自由で理不尽だと言える。

ましてや、サッカーの試合中に必要な精神力が暴力で身につく訳がない。日頃から、自分の感情をコントロールしている人間こそが、試合中も安定したプレーができるのだ。いずれにしても、暴力という犯罪行為が認められる理由はどこにもない。「体罰」という表現を止めて、選手や指導者の流動化が進めば、サッカー界全体の底上げに繋がるのではないだろうか。